高橋龍太郎みずからのキュレーションにより山梨県の清春芸術村で開催された。「顔と抽象」と題し、清春白樺美術館のコレクションから近代洋画やジャン・コクトー、ジョルジュ・ルオー、バーナード・リーチなど20点を選び、高橋龍太郎コレクション50点とともに展示するというもので、それまでの美術館でのコレクション展にはあまり出品されることのなかった小品も多く展示した。3つの特徴ある建築空間を活かし、現代アート作家と近代の作家が並び観る人に呼びかけてくるような展示は壮観であった。特に移築された梅原龍三郎のアトリエにおいて、梅津庸一と梅津が主宰するパープルーム予備校による「絵画言語に於ける新しき村の構想」のインスタレーションを展開したのは、展覧会内特集展示の様相を呈した。「日本の近代洋画に対する一つの応答」(梅津)として梅津と坂本夏子による共作《絵作り》を展示、梅原龍三郎の創作に想いを馳せつつ、その時代から営々と続けられているアーティストたちの格闘する姿をみる重層的な展示となり、本展をコレクターや美術館の枠を超える画期的なものとした。
顔と抽象 −スペクトラムとしての絵画−
高橋龍太郎
顔と抽象はスペクトラムを成している。
こういうとわかりにくいかもしれないが、顔、特に自画像は自意識の強度が最も強いもの、抽象画は自意識を消し去ろうとする試みとすれば、自意識の強さをスペクトラム(連続体)として並べてみたら、この時代の絵画の歴史を切り取ることができるのではないか。
要するにこういうことだ。
デカルトが「我思う、ゆえに我有り」と心身の二元論を唱えて以来、私たちは自意識という病に取り憑かれている。そしてその病が私たちのアートを生み出している。
近代の相克と葛藤。近代の日本の画家たちは伝統的な日本の感性を有しながら、西欧的技法を習得しなければならなかった。梅原であり、志賀であり、藤田であり、松本であり、原田である。これは近代の矛盾がなせる強さである。矛盾あるところに秀でた表現は生まれる。「我描く、ゆえに我有り」の苦悩が結実しているのだ。
しかし私たちの現代は違う。近代における自意識と外部の対立は解体し、むしろ自意識が失われていく時代を生きている。自意識を描く自画像は姿を消し、顔はさまざまな意匠をまとう。しかしまとうことで豊かになる表現もあるはずだ。並べられた顔の作品群は近代の強さと現代の豊かさとの対比ともいえる。そして自意識が失われてしまえば、そこには、美意識だけが抽出されることになる。そこでは形や色彩、質感といったそのままが純粋な形で表出される。抽象画の誕生だ。
してみると絵画とは自意識のスペクトラムを往復する美の冒険であるといえるのではないだろうか。堪能していただければ幸いである。
初出:「高橋コレクション 顔と抽象 清春白樺美術館コレクションとともに」展覧会チラシ、掲出パネル 清春芸術村 公益財団法人清春白樺美術館 2018年
- Venue:
清春芸術村内清春白樺美術館、光の美術館、梅原龍三郎アトリエ
- 会期:
2018年3月18日(日)ー2018年5月6日(日)
- URL:
